・本田城が何時頃築かれたのかは判りませんが、戦国時代に日根野弘就、又は安藤守就の重臣である稲葉長右衛門が居城として利用したとも云われています。
日根野弘就は美濃国守護代の斎藤家に仕え、斎藤家六人衆に数えられています。
斎藤道三と嫡男斎藤義龍との対立が顕著になると義龍方に与し、長良川合戦でも大功を挙げ、義龍の重臣となっています。
日根野氏の本拠地は美濃国本巣郡本田村にあったと伝えられ、周囲に弘就が発給した文書、書状が多く見られる事から本田城が居城だったと推定されているものの、美濃国諸旧記には美濃国厚見郡中島城と記載されている為、本田城の城主だったと断定出来ないようです。
稲葉長右衛門は安藤守就の重臣でしたが、守就が天正8年に織田信長から謀反の嫌疑をかけられ、稲葉一徹に身を預けられた事から一時浪人になったようです。
天正10年に発生した本能寺の変で織田信長が死去すると、守就は復権を計り、北方城を占拠、長右衛門も安藤家旧臣達と共に呼応したようで、本田城に入っています。
しかし、稲葉一徹は稲葉左近や加納雅樂、村瀬大隅等を派遣し激戦の末、本田城は落城し長右衛門も討ち取られています。一方、長右衛門は本田城では無く北方合戦で糸貫川で討死したとの説もあります。
その後、天正14年に豊臣秀吉の家臣である寺西備中守直次が1万石で配されています。直次は天正18年に近江国長浜10万石の太閤蔵入地の代官を担い、文禄元年の朝鮮出兵では後備衆として200名を率いて肥前名護屋城に駐屯し、伏見城の普請工事等を行っています。
しかし、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで直次は会津征伐で従軍したものの、結果的に西軍に与した事から改易となり、本田城も廃城になったと推定されています。
本田城は長良川系の糸貫川と中川を天然の外堀と見立てた平城で、舟運の拠点の一つ生津湊や、交通の要衝である今渡の渡しがあった事から軍事的にも重要視されていたと考えられます。現在も中世の平城ながら主郭を取り囲むように3方に堀や土塁の遺構が見られ貴重な存在です。
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