・顔戸城は応仁から文明年間に斎藤妙椿によって築かれたとされる中世の城郭です。
斎藤妙椿は美濃国守護代の斎藤宗円の子供、又は弟として生れ、幼少期は早くから出家し善恵寺で厳しい修行を行った後に、善恵寺の支院となる持是院を開きました。
長く僧侶として生活していましたが、長禄4年に当時の守護代斎藤利永が死去すると、跡を継いだ斎藤利藤が幼少だった事から妙椿が後見人となり美濃国を指導する立場となりました。
僧侶だった事から、膨大な知識と人望、文化人としての素養、人脈等を兼ね備えていたようで、形式上は美濃国守護の土岐成頼に従う立場でしたが、官位は成頼を上回る従三位権大僧都で室町幕府の奉公衆にも名を連ねました。
軍略家として非凡な才能を見せ、応仁の乱では西軍に与し、美濃国内の東軍方を一掃し周辺国まで勢力を広げています。
逸話としては、応仁2年に東軍に与した東氏が守備する篠脇城を接収した際、文化人で城主だった東常縁が「あるが内にかかる世をしも見たりけり人の昔の猶も恋しき」等10種の歌を妙椿に送ると、妙椿は「言の葉に君が心はみつくきの行末とほく跡はたがはじ」と返歌し、城と所領を返還したとされます。
妙椿は周囲からの評価が高く、壬生晴富は「無双の福貴、権威の者なり」、大見や長興は「この者、一乱中種々張行」と評し、大乗寺社雑事記には「東西の運不は持是院(妙椿)の進退によるべし」と記しています。
顔戸城は妙椿の隠居城とも云われ、近くに鎮座している顔戸八幡神社には長禄3年に妙椿が社殿を修築したとの棟札が残されています。
戦国時代に天文から永禄年間には高木主水正が居城として利用したとも云われています。
顔戸城は東西約150m、南北約167mの規模で、周囲を高い土塁と深い空堀を廻した平城で、虎口や櫓台も見られ可児川を天然の外堀に見立ていたようです。
現在も土塁や空堀の遺構が確認出来、貴重な中世平城の遺構と言えます。
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