・上恵土城が何時頃築城されのかは不詳ですが、15世紀末期頃に荏土城と呼ばれていた事から、少なくともこれ以前から存在していた事が窺えます。
戦国時代には織田家の家臣である森家に従う長谷川五郎右衛門が城主でしたが、天正10年に本能寺の変が発生すると情勢が大きく変化しました。
領主だった森蘭丸は織田信長に従い本能寺に共に滞在し明智光秀勢に討たれた事から、東美濃は権力の空白域となり、森家に対して日頃から軋轢を受けていた国人領主や土豪達は独立を画策しています。
特に、旧領主だった森長可が帰還し蘭丸の領地を接収した事から蘭丸を支持していた家臣や与力達からも反発を招き、肥田忠政や久々利頼興等が離反し、更に小里光明、妻木頼忠、遠山友忠、斎藤利尭等も排斥に動いています。
そのような情勢の中、長谷川五郎右衛門は森家を離反した肥田忠政に同調し、帰還した森長可に対して臣従の意を示さなかった事から、同じく忠政に同調した大森城主奥村元広と共に、攻撃対象となりました。
戦いの詳細は不詳ですが、上恵土城は落城したと思われ、五郎右衛門も自刃しています。
その後の記録がない事から、長谷川家は断絶し、上恵土城も廃城になったと思われます。
周囲は「大屋敷」、「小屋敷」と呼ばれており、大屋敷が本丸、小屋敷が二之丸だったと推定され、規模から察すると居館というより、城郭レベルの城だった事が窺えます。
現在は住宅街と畑地として整備された為、多くの遺構が失われ、土塁と堀と思われる地形が僅かに残る程度となっています。
岐阜県:城郭・再生リスト
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