・清水城は弘治3年に稲葉一徹が清水古城(山城)を攻め落とし、永禄8年にその石垣や古材を利用して、その麓の平地に築いたのが始まりとされます。
その後、一徹は天正7年に貞道に家督を譲って隠居し、それまでの本城だった曽根城から清水城に遷っています。
稲葉一徹は美濃国内の国人領主の家柄で、当初は美濃国守護職の土岐頼芸に仕え、斎藤道三が下克上で美濃国を奪取すると道三に仕え、西美濃三人衆の1人に数えられました。
しかし、跡を継いだ斎藤龍興とは不仲となり永禄10年に織田信長の転じています。
その後は織田家の家臣として各地を転戦し、天正7年に家督と曽根城を嫡子の貞道に譲り、自分は隠居城として清水城に入っています。
天正10年に発生した本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、天正16年に清水城で死去し、菩提寺である月桂院に葬られています。
稲葉家の本領は貞道が引継ぎましたが、一徹の庶長子だった稲葉重通が清水城を居城とする周辺1万2千石が分知されました。
重道は天正18年に発生した小田原合戦の際には豊臣方として従軍し、朝鮮出兵の際には名護屋城に布陣しています。
慶長3年に重通が死去すると通重が家督を継ぎ、慶長5年の関ヶ原合戦では当初は西軍として行動したものの、その後東軍に与した為、本領が安堵され清水藩が立藩しています。
しかし、慶長12年に通道は悪友達と共に乱痴気騒ぎだけでなく従者を木に縛り付け切り捨てるという目に余る行為を行った事が問題視され幕府の命により改易となった為、清水藩は廃藩となり、清水城も廃城となっています。
尚、寛文10年に岡田善紀が兄である岡田善次が本領を相続した際に当地周辺1千2百石が分知された事を受け、清水城の二之丸跡に陣屋を構えています。
以後、清水岡田家が領主を歴任し明治維新を迎えています。
現在、本丸跡は清水小学校の校庭として利用され、正門の左右には当時の石垣の遺構が残されています。
二之丸だったとされる陣屋の跡には当時の陣屋門と石垣の一部が残され、往時の雰囲気が感じられます。
清水城の城跡は貴重な事から揖斐川町指定史跡に指定されています。
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