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飛騨市神岡町概要: 神岡町には跡津遺跡や東漆山遺跡、西漆山遺跡、大多和遺跡、佐古遺跡などが点在し、縄文時代から人々が生活し易い環境だった事が窺えます。
神岡町柏原に鎮座している白山神社に社宝として伝わる石器は縄文時代晩期に制作された御物石器で、江戸時代に松坂市兵衛が山中で発見し、それ以降は形状から「誕生石」と呼ばれ安産に御利益があるとして信仰の対象となっています。
古墳時代に築造されたと思われる柏原古墳は直径16m、高さ4mの円墳で、竪穴式石室、神岡町内で現存する古墳は少なく貴重な事から飛騨市指定史跡に指定されています。
又、東雲遺跡からは古墳時代の甕をはじめ多くの出土遺物が発見されており、古墳時代にも確実に人々が生活を営んでいた傍証となっています。
奈良時代の養老年間(717〜724年)には神岡鉱山が発見され、金、銀が産出した事が伝えられている事から当地が重要視されていた事が窺えます。
文化的な発展も見られ、文徳実録や日本三代実録、延喜式神名帳に記載された大津神社が開創され平安時代には既に鎮座していた事が判ります。
同じく日本三大実録には元慶5年(881)に従五位下の神階を得た賀茂若宮神の記載もあり、現在の加茂若宮神社に比定されています。
鎌倉時代には伊豆田方郡江馬庄出身の江馬氏が入部したと思われ、常蓮寺の前身である太子堂を開創しています。
江馬氏は戦国時代末期まで、当地を拠点として勢力を拡大し、時期は不明ですが、多くの城郭が築城され、中でも中世城郭跡として価値の高い下館、高原諏訪城、土城、寺林城、政元城、洞城、石神城は貴重な事から国指定史跡に指定されています。
又、鎌倉時代後期に左兵衛尉藤原国家が築城したと伝わる傘松城の城跡は岐阜県指定史跡に指定されています。
国家は永仁7年(1299)、小萱薬師堂に岐阜県指定文化財に指定されている懸仏を大旦那として寄進しており、相当な実力者だった事が窺えます。
室町時代中期頃の江馬氏は、室町幕府政所執事の伊勢氏と関係が深く、江馬左馬助は、伊勢貞宗の庶子とも云われ、応仁の乱では東軍に与しています。
江馬氏は戦国時代に飛騨国守の姉小路家や三木家と互角以上の勢力となり、一族間の争いもありましたが、武田家や上杉家、織田家などの大勢力を巧みに利用し地位を確立させていきました。
特に江馬輝盛は、当初、越後上杉家に従ったものの、永禄7年(1564)に甲斐武田家に従った江馬時盛に敗れた為、その後は武田家の旗下に入り、武田家の越中侵攻で功績を挙げています。
リメイク版の垂井町の動画
元亀4年(1573)に武田信玄が死去すると、輝盛は上杉家と関係修復を図ったものの、結果的に天正4年(1576)に上杉謙信の飛騨侵攻を受けて降伏しています。
一方、三木氏は飛騨国主姉小路家の名跡を継ぎ、織田信長の後ろ盾を得た事で飛騨国北部まで版図を広げています。
天正10年(1582)に姉小路氏(三木氏)との八日町の戦いで、江馬輝盛が大敗し、討死すると江馬氏は大名家からは没落し、当地は姉小路氏領となっています。
天正13年(1585)に豊臣秀吉に従った金森長近が飛騨国に侵攻すると、姉小路氏は激しく抵抗したものの事実上滅亡しています。
長近は本城として高山城を築くと、増島城と諏訪城、神岡城の3城を有力な支城として整備し、神岡城には重臣の山田小十郎が配されています。
又、長近は秀吉の命により茂住宗貞を登用するなど領内の地下資源の開発に尽力、茂住銀山は文禄から慶長年間に最盛期を迎え1千戸以上の家屋が軒を連ねています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで金森長近は東軍に与した為、本領が安堵され高山藩を立藩、当地も高山藩領に組み込まれています。
元和元年(1615)に一国一城命が発令されると神岡城は廃城となり、城郭仕様は解除されましたが、陣屋構えの旅館として引き続き当地の行政の中心的な役割を持ちました。
元禄5年(1692)に高山藩6代藩主金森頼時が上山藩に移封になると、高山藩は廃藩になった為、神岡旅館も廃されています。
神岡の地は高山と日本海地方を結ぶ、越中東街道の要衝だった事から、荒田口口留番所が設けられ、領内の人や荷物の出入りが厳しく管理され、その跡地は貴重な事から飛騨市指定史跡に指定されています。
又、当地が天領になると幕府により茂住銀山と和佐保銀山の開発に力を入れた為、再び活況を呈しています。
明治7年(1874)に三井組が神岡町内にある鉱山の取得を乗り出し、当時としては最先端の技術が導入され大規模な増産が図られています。
しかし、神岡鉱山から流出したカドミウムが原因となり公害病となるイタイイタイ病が発生し大きな問題となっています。
その後、神岡鉱山の跡地を利用してニュートリノ観測所カミオカンデが設けられ、現在はスーパーカミオカンデが稼動しています。
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